わたしの道徳
「Roine's note」

2008/03/26 Hiroshi Ikarashi


 私は彼の墓前に花を手向けた。
 
 遠い日のこと。イロウと私は、共に家を出た。それは私にとっても彼にとっても、大切な出来事だった。
 
 ある晩、両親と喧嘩した私は、彼に電話をした。
 「家出しよう」 − そう伝えた。
 彼は乗り気ではなく、結局私が彼の家に押しかけ、荷物を準備させ、半ば引きずり倒して連れてきた。あの時の彼は、家出なんてする必要の全くない、良家のお坊っちゃんだったのに。
 
 とりあえず、私たちは町を抜けた。ここに居ては不味い。顔を見られたら、必ず連れ戻される。私はともかくとして、彼の事。この家出がバレたならば、彼はこっぴどく叱られる。私たちの両親が眠っている間に、二人は町を抜け、人々の動き出す頃には知らない土地へ着いていた。

 気が抜けた。私たちは、ひどく空腹であった。家出をするというのに、食べ物を持ってきていなかった。そんなもの、現地調達すればいい。さしあたり、目の前にあったお店でパンを買って食べた。公園の水飲み場で渇きを癒し、ついで、汚れた手も洗った。
 
 私には、お金がなかった。
 自分の財布は持ってきていた。財布はあったのだが、中身がなかった。札びらの数枚と、硬貨の数種類。
 
 思い出した。
 イロウは、お金持ちである。私は、彼の財布に目を付けた。確認すると、あの日の私にはどうやっても手にすることの出来ない金額が入っていて、私は怯えた。彼も、ぎらついた私の眼を見て、当たり前のように怯えた。私は、自分の無礼を詫び、両手で財布を返した。

 新聞を買ってみた。真夜中の家出は、そこに載ろうはずがなかった。子供の逃避行よりも、皆にとっては戦禍の方がよほど大事であった。まだこの国に、火の手は伸びていない。首相には悪いが、少なくとも家出少年・家出少女は、平和だった。二人で笑った。
 当面、私たちにとっての敵は、病院と警察であった。どちらのお世話になっても、間違いなく家に返される。病院も警察も、お世話になる時が来るとは思うのだが。
 幸いにも、銀行だけはある。私の隣に。当面、大銀行のお世話になることにした。
 
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 気がつくと、行く当てがなかった。道の端に腰を下ろし、今夜の宿をどうするか、それを話し合った。まさか、この二人で宿屋に泊まるわけにはいかない。彼と二人で、一瞬青ざめ、また笑った。
 
 街は、賑やかであった。雑踏に紛れ、しばらく彷徨うと、海が見えてきた。眼下に広がるそれは、美しかった。私たちは坂を下った。波の傍ら、パンの食べ残しを半分にちぎって食べた。
 二人で新聞を広げる。広げて、作戦を練る。親から逃げ、病院と警察をかわし、何処かで寝る。銀行が潰れたら、次の銀行を探す。最低限、それだけ確認すればよい。二人は新聞を閉じた。
 
 傾向と対策、予習と復習が終わったので、模擬試験をすることにした。坂を登り、街の中心へ戻った。わざと警察を探し、さり気なく近づいた。まさか家出少年・家出少女には見えないだろう。…今思えば、その二人は、あからさまに家出少年・家出少女の姿であったのだが。
 掲示板を見つけた。落とし物、尋ね人、この町のならず者。黒板にはチョークで「不審人物を見かけたら、ただちに通報してください」と書かれていた。…彼の目を見た。どうやら同じ事を想像したらしい。ニヤリと笑い、私たちはその場を離れた。
 
 なんとなく、私は自分の髪の毛を解いた。黒いゴムできつく結ばれていた髪の毛。夕べは、風呂にも入らず家を飛び出したので、その髪を洗いたかったのだ。再び公園へ行き、水道の蛇口をひねり、じゃぶじゃぶと髪を洗った。水は冷たかったが、何か悪いものが洗い流されたような気がした。
 イロウが、どこからかタオルを持ってきてくれた。私はそれに感謝し、出来る限り水気を切った。生乾きの髪のまま、また街を歩いた。
 
 鐘の音が響いた。
 規則的に幾度か鳴ったので、時を告げる鐘なのだと思った。明るい日射しと短い影から、おそらく正午に近い時間なのだろうと確認出来た。また、パンを買う。
 
 よくよく見ると、この町は疲れ果てていた。パン屋の隣には、おんぼろのビルがある。そこかしこに、廃墟も同然の建物が見える。これは、好都合だった。私たちは、寝る場所を見つけた。
 治安は、さほど良くないだろう。さっき見た掲示板を思い出した。「ならず者」 − そうだ。ならず者がいるのだ。悪漢、ごろつき。もしかしたら、今、私たちを狙っているのかも知れない。ただの杞憂かも知れない。とにかく、「病院と警察、そして、ならず者に注意」。これが、我々のスローガンになった。
 
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 顔に、冷たい物があたった。雨だった。空は晴れているが、何故か雨が降ってきた。天気雨だ。イロウと二人で路地を駆け、ドアの壊れたアパートに忍び込んだ。やがて、黒雲があたりを覆い、本格的な雨が降り始めた。
 
 窓を開けてみた。錆びた格子、狭い庭があった。カエルがいた。私は、嫌な物を思い出した。幼い頃、カエルを実験台にしてしまった事がある。子供がよくやる、残酷な儀式のことだ。
 窓枠のすぐ外にも、カエルが張り付いていた。私は、一匹を手に取った。青いカエル。喉をぷくぷくと膨らませ、眠ったように私を見ている。私は、心の中で謝った。カエルは逃げた。私が恐かったのだろう。
 
 雨が上がるまでは、ここを動けない。私たちは、一度冷静になろうと、持ち物検査を始めた。
 すると、妙な物が出てきた。
 
 イロウの黒いカバンから最初に出てきたのは、何故か写真だった。しかも、私が映っていた。その意味を理解した時、私は彼の顔を見る事が出来なかった。また私は、心の中で彼に謝り、写真をカバンの、元の位置に返した。
 次は、本だった。生物と化学の教科書、何らかの資料。それから、メモ帳。何枚かの着替え。それと、薬。イロウは、喘息持ちだった。
 
 私は、恥ずかしくなった。彼のカバンを見てしまった事と、これから私のリュックが開かれる事。その両方が、とても恥ずかしかった。だけど、私のリュックを開けない事は、卑怯であると思った。だから、イロウに見せた。
 何枚かの着替え、日記帳。…それしか入っていなかった。考えているようで、何も考えていなかった。入念な計画を立てた家出があるならば、それは「旅行」だと思う。日記は、最初の数ページだけ見せて、後は閉じた。これで、おそらく私たちは平等だ。やっと、イロウの顔を見る事が出来た。赤い顔をしていた。私もそうだっただろう。
 
 雨が止んだ。私たちは、アパートを出る事にした。
 夕暮れの中、来た道を引き返す。この道を全て逆に辿れば、家に帰り着く。でも、今はそれが出来ない。私たちは今日最後の食事を買い、別の廃墟を探し、そこで落ち着いた。落ち着いて夕食を終え、眠った。とても疲れていた。
 
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 夜が明けた。
 いきなり、お客が現れた。恐い顔をした男が立っていた。
 
 戦慄が走った。

 これは、「ならず者」だ。イロウも私も、それに気づいている。が、どうしようもない。
 こいつは、間違いなく敵だ。「殺される…」 そう思った。
 
 「…誰だ?」
 男が言った。
 
 「人の家で、何やってんだ」
 
 ここは、彼の家だった。私たちは、お客だった。
 どういうわけか、敵と一緒にお茶を飲んだ。ついでにパンまでご馳走になった。いい加減パンにも飽きたが、お客の身分なのでしょうがない。
 
 たしかに男は、ならず者だった。盗みを働き、人を騙し、それで生きていた。男が盗んできたパンを、私たちは食べたのだった。殺されはしなかった。男は、まだ誰も殺してはいなかったのだ。
 ならず者に礼を言い、その部屋を出た。最後に彼は、イロウのメモ帳に地図を描いた。ここよりも少しだけ安全な町と、そこへの道順を教えてくれたのだった。
 
 イロウ銀行は、まだまだ潤っていた。路面電車に揺られ、バスを乗り継ぎ、私たちは新しい世界へとやって来た。ならず者の言うとおり、この町は安全で、しかも優しかった。少しだけ、銀行のお世話になろうと思った。
 二人で喫茶店に入った。私たちは薄汚れていたが、誰も咎めなかった。そこで、スパゲティとサラダを食べた。イロウと私は、やっとパン以外の食事にありつけた。私はさらに融資をお願いして、ケーキまでたいらげてしまった。銀行が、少しだけ傾いた。

 満足した私たちは、辺りをのんびり歩いた。すると、鐘の音が響いた。この町にも鐘はあるのだ。その音を目がけて進むと、教会が見えてきた。人々がその鐘を聴きながら、祈りを捧げていた。イロウと私は、なんとなく十字を切り、微笑みあった。
 今日も、新聞を買うことにした。今日の新聞は、イロウが選んで、イロウが買った。世界は、昨日とさほど変わっていなかった。違うのは、日付と天気。今日、この土地に雨は降らないらしい。幸運だ。

 
 「家に、連絡しないと」
 突然、イロウがとんでもない事を口にした。
 「だって、お父さんもお母さんも、心配してるよ」
 それは当たり前に心配しているだろう。でも、私はそれを許さない。許してはいけない。駆け落ち同然に家出しておいて、それを馬鹿正直に伝える馬鹿が何処にいるのか。でも、実際にいる。私の目の前に。
 「ばか」
 そう言って、私は彼を無理矢理引きずって歩いた。そうしないと、この馬鹿はいつか、親に電話を入れる。しばらく歩いて、謝った。二人で「ばか」と言って、謝った。
 
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 銃を持った人々が、目の前を走り去った。現実に引き戻された。私たちの現実と、世界の現実。この町で、のんびりしていてはいけないのだ。
 
 振り向くと、一人の警官が立っていた。若い青年のようであった。私たちと、そう変わらないようにも見える。
 「君たち、どこから来たの?」
 にこやかなその顔は、笑っていなかった。私はあきらめた。
 しかし次の瞬間、イロウが青年に近づき、傾いだ。青年は小さく呻き、転がった。私はイロウに引きずられ、光の速さで雑踏を抜けた。
 
 「イロウ…。あなた、何したの……」
 「そこに、しゃがんでみて」
 「…うん」
 「じゃあ、横にしゃがんでみて」
 「うん」
 「それは違う。腰を横に捻ってるだけ」
 「は?」
 
 「じゃあ、膝を横に曲げてみて」
 「曲りっこないじゃない」
 
 「試したこと、ある?」
 「試すもなにも……って………イロウ……」
 「全ての物事には必ず例外がある。
  世界中を探せば、膝が逆方向に曲がる人だって見つかるかも知れない」
 
 「つまり…あの人を…」
 「そう。自分を実験台にするのは、怖いから」
 「…」
 「どんな偉い人の学術論文だって、自分の目で確かめない事には、納得できない」

 「…あの人、どうなったの?」
 「折れてはいない。横から、踵で腱をひっかけた。そうすれば骨折は免れる。それに軸足だったし、僕みたいな小僧の不意打ちだから確実に転ぶ。手で顔を殴ると、目立つし、足止めにならない」
 
 
 私は、イロウに騙されていた。彼は武術の心得などないし、仮にあったとしても、そんな器用で危険な真似が出来ない人間なのも知っている。ましてや、警官が相手なのだ。警察であり、国だ。
 
 「逃げないとね」
 
 彼が言った。たしかにそうだ。逃げなくてはならない。私は、持ち物検査の事を思い出した。あの時出てきたのは生物の教科書。ひいては「医学書」だった。
 「あの人、バランスの取り方が微妙に変わってた。骨盤を亀裂骨折か何かしたんだと思う。警察の人にしては、ちょっと隙有りかな。まだ若いし」
 そう言って笑うイロウが、恐くもあり、頼もしくもあった。
 
 
 だけど。
 何処へ逃げたらいいのだろう。そもそも、何故逃げるのだろう。イロウは、私は、親は。誰が、何のために何処へ逃げるのだろう。それが判らない。
 私は、親から逃げた。それは、親が嫌いだったからだ。喧嘩して、家を出た。イロウを引きずって、一緒に逃げたのだ。そして故郷の町から逃げ、今は遠い町で警官から逃げている。イロウに引きずられながら。
 
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 「帰ろう」
 私が言った。
 「え?」
 「帰る。帰らないと」
 
 「バカ」
 「なんで」
 「家出して、僕を引っ張り回したのは、君じゃないか」
 「でも」
 「勝手にしなよ。もう付き合ってられない。帰りたかったら、勝手に帰ればいいじゃない」
 
 「…ごめんなさい…」

 私は泣いた。彼を見ると、泣きながら怒っていた。
 誰もいない路地で、嗚咽した。
 
 恐いのだ。二人とも、何もかもが恐い、恐くてたまらないから逃げた。そして、恐くなり果てて帰る。それだけだった。二人は、それぞれの帰るべき場所に帰るのだ。
 二人は、来た道とはたいぶ違ったけれども、似たような道を辿り、そこかしこにぶつかりながら、家に帰り着いた。私は、父親に殴たれた。母は、泣いた。彼は知らない。多分、厳しい両親にこってり絞られたのだと思う。
 私は久しぶりの夕食を食べ、身体の汚れを落とすと、一部始終を日記に記し、暖かなベッドで眠った。
 
 家出少年と家出少女の話が、新聞に載ることはなかった。

 最近、Illowという学者が亡くなったのを知った。立派な学者さんにしては、随分な名前だと思う。illだなんて、それこそ具合の悪くなりそうな言葉を、よくも親はつけたものだ。
 
 「illow、さよなら。
 good-bye , my illegal ill.
          roineより」
 
 私は彼の墓前に花を手向けた。


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