世にもビミョーな物語 8頁 No. 071〜080
黒船
ワシが常日頃お世話になっている、「化膿姉妹」というMIDI仲間の集いがある。やっと最近、心の余裕が出来たもので、その中の某人の掲示板にお邪魔した。そこで、何故かワシは、キレた。
その掲示板には、新しいお客様が来ていた。とある五人衆。彼等は、新しい仲間(それが化膿姉妹であった)を見つけ、遊びに来ていたのだった。が、彼等はそこで、一種の脅迫をしていた。彼等には、何も悪意はないだろう。邪念もなかろう。ところが、ワシが属する化膿姉妹の某人に対して
「この音源がいいよ!」「音がいいよ!」「買いなよ!」
と、繰り返していた。実際、その中の或る方は「半脅迫しているみたいですね…(笑)」と書いていた。たしかにそれは脅迫だ。楽しい脅迫。
五人衆は、彼等の中で一番音が良いと思う音源があって、それを五人とも持っている。それで楽しんでいたのだ。「脅迫」と書くと聞こえが悪いので、言葉を選ぶと「押しつけ」だ。
へんてこな比喩を持ち出す。
「化膿姉妹公園」という公園があって、ワシを含む仲間たちは、そこで遊んでいた。仲間の間では独特のおもちゃがあって、それで楽しく遊んでいた。それはMIDIという道具で、歌謡曲を冗談音楽にしたり言葉をしゃべらせたり変な効果音を作り出す、そういう遊びであった。
ある日、違う公園から仲良し五人組がやってきた。この五人は、また違う道具で違った遊び方をやっていた。彼等は、やはり自分達の遊びを伝え、一緒に楽しみたかったから「この音源(っていうおもちゃ)で遊ぼうよ! お父さんに買ってもらいなよ!」と言った。
ところが某人は困った。その音源を買う気になれないからだ。ワシは偶然にも、公園内のトイレに行って帰ってきた状態で、見てみると違う五人組が来ていた。そこで、某人に「買いなよ!買ってもらいなよ!」と押しつけをやっていたので、ワシは怒った。
「ぼくたちの遊び場を邪魔すんな!」と、怒った。そういう事だった。
後日、五人衆の筆頭である、これまた某人のところへお邪魔して、過剰な親切のつもりで掲示板で書いてきた。するとその某人は、
「あなたの書き込みが、逆にこの掲示板に来ているお客さんを不快にさせる事に気づかないんですか? 場の空気を読んでください。お願いします」
と、しゃあしゃあと宣った。
確かにワシは、その掲示板の空気を読めなかった。それは、五人衆も同じだ。彼等は化膿姉妹という世界の空気を読んでいなかった。全くと言っていいほどに。お互い様だ。ワシは、ワシの身勝手な親切心の書き込みを恥じると同時に謝ろうと思った。でも、それはまた彼等の世界を汚す事で、場をぶち壊しにする事だ。なので、やめた。
プロであろうとなかろうと、音楽仲間であれば、仲間内でのノリとか遊び方がある。そこへ違うノリの人間がやってきて、なんというか「道場破り」をする。勝負を挑む。かつて、ワシもやった。何度も何度も。化膿姉妹に対してもやった。
が、それでも結局、仲間になった。最初のうち違和感を感じながらも、「ああ、そういう人なのか」と互いを認めて、最終的にはアホみたいな事を始める。それが化膿姉妹だった。
少しだけ、余計な事を付け加える。
本人は楽しんでいるつもりでも、結果的に道場破りをやってしまうと、最悪の場合コテンパンにされる。自分よりも遙かに若い子どもなんかから、優しい言葉でもって叩きのめされる。下手すると、二度と音楽がやれなくなる程に潰されたり、自慢の音楽サイトを泣く泣く閉じる羽目になったりする。
なので、ワシも今後、余所様にお邪魔する時には細心の注意と敬意を払って、「た、た、たのも〜う……」と、ドアをノックして「こんにちは〜」と言う事にした。そうでないと、メッタメタのギッタギタにされかねない。みーんな音楽をやる人間のプライドを持っているからだ。
どれだけ自分に技術とか知識があっても、慢心しちゃいかん。このトシになって、やっとそれが解った。長い長い三十年であった。よくわからない締めくくりではあるが、某人の掲示板で、このような事を感じた。これが、ワシにとっては「黒船」。黒船事件であった。
4,600,000,000 vs 30
巷では、通称「ヒッキー」という女性歌手が人気らしい。が、ワシはよう知らん。
それよりも、我が部屋には「ゴッキー」という方々が、よくいらっしゃる。非常に困る。
ところが今年に入ってから、ゴッキーさんが全然姿を見せなくなった。というのは、ワシが知恵を働かせたからだ。これも巷で昔から流通しておる「ゴッキーひょいひょい(仮名)」の事を考えた末、わかったのだ。
あれは、結局ゴッキーさんを“誘い込む”。匂いで誘惑して誘導して罠にはめて動けなくして終わりのはずなのだが、実のところそうではない。
ゴッキーさんは、「あ〜、腹減ったなぁ。食いもんないかなぁ…。お? なんかいい匂いがするぞ…。行ってみよ」とか考えて、「ひょいひょい(仮名)」を目指してやって来る。で、「おー、美味そうな匂いだ。でも、やっぱこれってワナだよね。やーめた」とか考えて逃げる。それで、行くあてもなくワシの部屋を徘徊する。それを見たワシが絶叫して、スプレー片手に追い回す。それで結局、深夜のバトルが勃発するのだ。
なので、とりあえずワシは「ひょいひょい(仮名)」を置くのをやめてみた。あと「コンバトラーぶいぶい(これも仮名)」も、やめた。全部、ゴッキーさんを呼び込んでいる、ネオンピカピカの立て看板みたいなものだからだ。
それと同時に、食べ終わった弁当の空き箱だとかジュースの缶とか、少しでも匂いのしそうな物は、きちんと捨てるようになった。コンビニ弁当を食べたなら、ちょっとだけ水ですすいで、すぐさまコンビニの袋に入れ、きっちり縛る。勿論ゴミの分別もきちんとする。
すると、流しも部屋も綺麗になるし、ゴミの分別も覚えるし、ゴッキーさんも来なくなる。今年は、まだ夜中に絶叫していないはずだ。実はワシが知らないだけで、ワシのすぐ横を、とらーべりん♪とか歌いながら、ヒ…もとい、ゴッキーさんが散歩しているのかも知れないが。
なんのかんの言って、ゴッキーさんとの死闘は終わらない。46億年 v.s. 30年だ。勝てない。勝てるはずがない。万が一勝ってしまった場合、このサイトの名称は
「ゴキ研」になるであろう。
…やなこったい。
MIDIと著作権とJASRACと面倒くさい話
とんでもなく仰々しいタイトルをつけてしもうた。今回ばかりは、ちと難しい話になる。しかも、長い。
最近あれこれとあり、この問題を考える事が多くなった。mp3を発表したり、インターネットラジオを発信する機会に恵まれたり。その中では、どうしても著作権という法律・縛りを考えなくてはならない。
で、先にワシなりの結論を述べる。JASRACは、我々MIDI制作サイトからすれば、一見「悪の枢軸」だが、逆だ。
「JASRACがあってこそMIDIが発表できるし、JASRACがないと音楽そのものが聴けなくなる」と、ワシは思う。
数年前にJASRAC(日本音楽著作権協会)が、MIDIをホームページで発表する事に対して一定の基準を設け、一定額を徴収するという趣旨の法律を作ろうとした(正確な表現ではないが、ほぼこの通り)。それは国会で可決された。国会すなわち国の法律であり、当然、文化庁が絡む話になる。ここで、アマチュアミュージシャンの一部から反旗が揚がった。
「JASRACの行為は、音楽が好きで、一般市民レベルでMIDIを創作する人間の活動を妨げ、監視の目を光らせる“音楽独裁国家”を作り出すのに等しい」という声明文が、あちこちで発表された。JASRACにはあっという間に「悪名高き」「酷い人達」「邪魔者」「取り締まり屋」などの枕詞がつけられた。
この言葉達は逆から言うと、それを発した人々に、そっくりそのまんま当てはまる。
あるサイトで、過去にこのような記述があった。
「JASRACのやり方は、現在の政府のIT推進の政策に逆行するものであり、文化庁は国民の声を無視してはいけない」。
これは正しいとは思うが、ワシの本音を述べるならば、ちゃんちゃらおかしいと思う。
そういう人間が好んで使うのは「悪法」「正しい社会」「国民の声」「日本の音楽文化」「楽しい社会交流」「山賊行為」「癒着」「非常識」「アングラ」「音楽界の衰退」「法律の乱用」「社会通念」………。
これらは全て “抽象的で、説明しろと言われたら、どれも2時間ぐらいないと説明できないか、最終的には説明できっこないもの” だ。
「正しい社会」「非常識」「悪法」などがそのいい例だ。何をもって正しいのか、悪法って何だ。これは、その日その日で異なるし、立場にもよる。ある人達から見ればある人は悪人。逆に、違う人達から見たら善人。法を犯してはいなくとも、日頃の行いによって犯罪者呼ばわりされる人もいる。
「国民の声」などと安易に言うべきではない。
都合のいい時にだけ自分達の意見=“国民の声” になるのであれば、へそが茶を沸かす。常識を持ち合わせている人が、わざわざ「私は常識人です」なんて言うだろうか。
特に「反旗を翻す」的な言葉を使いたがる時、その人は既に社会に対するゲリラになっていて、ほとんどそれに気づかない。逆に、どんどん難しい言葉で自分達を社会的な弱者に仕立て上げていき、それにもまた気づかない。その難しい言葉が、先にあげたものだ。
社会的とは何か。この場合音楽的弱者とは何か。それは自由な音楽制作が出来ない、縛られ、監視され、迫害された人々だ。この立場に立つ、見せかけるのは簡単だ。その方法…いや、敢えて「手口」を説明する。権力の力を借りるのだ。
「JASRACは、悪法を成立・制定して我々を迫害しようとしています」「音楽を愛する皆さんの大多数の意見で、共に正しい社会を作りましょう」
この文章を、音楽を作らない、単に聞くだけの人が読んだら何を思うだろうか。「音楽は好きだし、まあまあ愛してはいるけど…。なんでそれが『正しい社会』になるの? それってあんたらMIDIをやる人間のエゴじゃないの?」と、捉えられかねない。似たようであっても、違う世界の人達からすれば、こういういざこざは大概そんなものだ。
「関係ない人々を巻き込んで、お上を敵対視させる」。簡単なトリックだが、自尊心の高い人間ほど引っかかる。自分の足下が見えている人は引っかからない。仮に“音楽を愛する皆さんの大多数の意見”が後ろ盾になったならば、今度は迫害を受けるどころか “強権発動する側” に立ってしまう。この人たちが一番嫌いな立場なのに。
JASRAC問題について「戦う」という表現は、死ぬほど見てきた。それはアマチュア音楽家としての命をかけることでもあるが、わざわざ「戦う」と用いる事で相手を悪者に仕立て上げ、同時に自分を迫害される弱者・善人に見せる事も可能だ。どちらが正しくて、どちらが悪なのか、そんなのはわからない。その日その日で最高裁の人に聞くしかない。
ワシも確かにJASRACのやっている事すべてに賛同できないが、JASRACが何を考え、どう動いているのか、これも全くわからない。せいぜい判るのは「いろんなMIDI制作者から目の敵にされている」という事ぐらいだ。相手がやっている事がろくろくわからないのに、どうしてJASRACを「悪の枢軸」とか「山賊」とか言えるのだろう。よくわからない。
政治的な言葉を沢山用いるという事は、自分を飾り立て権力をかさに着る事でもある。これは政治学の世界なら当然の知識だ。音楽の世界では、どうも素人さんが多いらしい。政治学なんて言わなくても、家の近所で選挙があって、それのボランティアなどをやった事のある人なら、その意味がわかると思う。とても簡単な言葉の問題だ。ただの日本語。
JASRACは確かに音楽的な法律そのものだと思う。でも、その法律がないと、テレビ・ラジオ・コンサートでは基準がなくなる事になって歌ひとつ歌うのにも困り、結果何も発信できなくなると思う。何故かというと、音楽の法律がなくなったらプロでさえもやっていい事と悪い事がわからなくなるからだ。
そもそもプロにとっては大切な収入を得る根本になる。だから「著作権」だ。その「最低限でもあり、最大限の規則・規範を作り、管理している」のは、JASRAC。日本音楽著作権協会だ。文化庁は、それの上部組織なだけである。
ここからは推測。JASRACの人達も毎日のように“闘っている”。闘う相手は、アングラサイトの運営者などではない。逆に、日本の法律と闘っているのだ。どう見ても、あるアーティストのイメージを貶めるサイトがあるとする。でも、今の日本の法律に照らし合わせて、どうしても告発する事が出来ない。じゃあどうするか。法律を変えるしかない。でも、そのためには線引きが必要になる。すると、関係ない人の自由な音楽創作活動の妨げになる。
かつて、著作権の基準に関する噂があった。他の曲のメロディを2小節そのまま用いたらアウト。4小節というのも聞いた事があるが、結局それは噂に過ぎなかったらしい。だが、もしもそういう基準があって今も使われていたとする。
2003年の現状、そんな物は意味がない。RAPはどうするのか。リズムだけの曲はどうするのか。どんどん規則とか法律が追いつかなくなる。時代の先端を走る人達に“法律を犯してやろう”という意識が微塵もなかろうが、JASRACは置いて行かれる。音楽は、そうやって変わっていくものだと思う。
その法律を作る中で、討論・議論はあって当然だと思う。だが、「JASRACさん、あなた方のやろうとしている事はおかしいと思います」とは言えるが、「JASRACさん、あなた方のやり方は犯罪です」とは言えない。いつ誰が犯罪と決めたのか。討論でも議論でもない、ただの決めつけになってしまう。
おまけに「民主主義国家に於いて」みたいなおまけをつけると「なんですか、それ?」の世界になる。自分たちの薄っぺらい主義主張に箔が付くとでも思っているのだろうが、その金箔を剥がしてみれば 結局、「邪魔すんな/金とるな/好きにやらせろ」という、野蛮なエゴイズムだったりする。余計な言葉は、使えば使うほど馬鹿が露呈される。
法律を変えようと思うならば、選挙に行く。志があって、ある年齢に達しているならば、選挙に出る事も可能である。この話を聞いて「誰が出るんだよ」「現実見ろよ」等と鼻で笑うような人間は、先の「民主主義国家に於いて」なんて言葉を使えない筈だし、使ったならば自己矛盾になる。
他の手段として、自分たちの意見を集約し、嘆願署名を集めて文化庁に届けたり、少しでも理解してくれそうな国会議員さんに請願・陳情するというのもある。これらは手続きさえ踏めば誰にでも出来る行動だし、やっても問題ないし、捕まらない。
だが、逆に「JASRACを告発する!」とかスローガンを掲げて集会を開くと、下手すればお上から睨まれる。もし「JASRACを弾劾する!」なんてサイトを仮に作ったら、それこそ誹謗・中傷であって、名誉毀損という音楽とは関係ない法律の世界から弾劾されかねない。
少し前に、小林亜星さんが著作権問題で裁判を起こした。結果、勝訴した。亜星さんは、一般には「JASRACと仲が悪い(であろう)人」として名が知れている。でも亜星さんは、自分の音楽家としてのプライドを守るために、JASRACが作ってくれた規則に従い、きちんと裁判を起こし、その結果勝利した。
亜星さんは、いくら自分が虫の好かない相手だろうが、その中で礼儀を守り、今度は日本の音楽のルールに護られ、自分の正当性を主張し自分の音楽を守ったのだと思う。
この人達(JASRAC)のどこが「山賊団体」で「恐怖政治の首謀者」なのだろうか。そんな事をうっかり言うと、亜星さんを始め日本の商業音楽の基礎を築いた方々から怒られると思う。亜星さんも個人的にJASRACを嫌っているのかも知れないが、存在は認めているはずだ。音楽で収入を得ているのだから。
大平原の中、車を運転しているとする。どう見ても目の前には一本の直線道しか伸びていない。ところが、道の両側・道路の真上には「右へ曲がると事故が起きます。右へは絶対に曲がらないで下さい」「もしあなたがジュースを持っていたら、それを飲むと気がそれるので、事故が起きるでしょう」「看板を見ると、事故が起きます」など、数多くの看板が掲げられている。これは、事故を招いているようなものだ。
簡単な代替案がある。「この先5km、直線」という一個の看板を出す。これだけだ。「この先きけん」と書かれると、人間はなぜかその看板の向こうへ行きたがる。
ワシは、アングラになりたいのではない。ゲリラになりたくないのだ。自分がどう正しくて、どう間違っているか、よくわからない。そのためには六法全書を買ってきて、隅から隅まで読むしかない。それは面倒くさい。政治家のぼんくら息子でも、これぐらいは一応わかる。高飛車な演説、許されたし。……訴えないでね。
柿の種とは、恐ろしい食べ物である。
かつて「やめられない、とまらない」という名キャッチコピーの、スナック菓子のCMがあった。カルビーの「かっぱえびせん」だ。ワシにとって「やめられない、とまらない」のは、亀田製菓の柿の種である。越後人にとって、亀田の柿の種は食事代わりだ(ウソです)。
新潟というところは美味しい水が豊富にあり、いい米が育つ。だから、おいしい米菓が出来る。新潟の子供は柿の種が大好きだ。なんとかチップスも勿論好きだが、根っこを辿ると、柿の種に行き着くのではないかと思う。
亀田製菓以外にも老舗は多い。が、東京へ出てきて、あちこちのコンビニで目にするのは、決まって亀田の柿の種だ。それの6袋入りは、ほとんどのコンビニに置いてある。
最近、ようやく長年のダイエット戦争に決着がついたので、いろんな物のカロリーを振り返ってみた。すると、あの6袋入り柿の種は、どえらい高カロリーであるのに気づいた。
あれは、一度に全部食べきると、1,254kcalになる。なんとかチップスの、なんとかピザ味でも2袋強。高カロリーで知られるカップ焼きそばでも、約2個分に相当する。「一度に全部食べなきゃいいじゃん」と思ったあなた。それが、悲しいかな越後人の性なのだ。
見た目にも、あれは大した量ではない。袋の大きさで言うと、なんとかチップス/ほにゃらら煎餅の方が、空間はあるにせよ多く見える。だから、ついつい全部食べてしまう。「やめられない、とまらない」のだ。
要するに全部食べるワシが悪い。全部食べなければいいのだ。一袋だけ見たら、209kcal。脂っこくないし、もたれない。醤油味で香ばしい。それを考えると、6袋で約300円は、なかなかの物だと思う。食べきりなので、湿気らないし。
よく、海外へ行くときに、梅干しと漬け物は持っていくといい、と聞く。最後には、子供の頃に食べていた物が一番おいしく感じられるからだろう。ワシが海外に行くのならば、亀田の柿の種6袋パックを持参する。
同じ新潟のメーカーでも、みんな味は違う。ワシは、昔から変な自信があって、
「日本全国、各メーカーの柿の種を何十種類並べたとしても、その中から亀田製菓の物だけを抜き出せる」というものだ。柿の種テイスティング。誰がやるんだ、それ。
三つ子の魂なんとやら。子供の頃の味は、いくつになっても忘れないものだ。柿の種とは、恐ろしい食べ物…失礼、恐ろしく美味い食べ物である。
おまえのかあちゃん
本棚を整理していたら、小学校の卒業文集が出てきた。60人ほどの懐かしい顔が並び、幼い顔をしたワシも、そこに載っていた。
仲が良かった奴は勿論だが、不思議と、沢山喧嘩をした人間の事を懐かしく思い出す。
で、それから20年ばかし無駄に年を取ったワシが、「子供の喧嘩のお約束」という物を考えてみた。ちなみに、男の子に限った話。女の子の場合、それはそれで大変らしいので、省略。
◎ 其の一「紛争勃発」
どちらかが、「バーカ」とか言う。あるいは、会話の中で、相手にとって言われたくない事、言われて困るような弱点を突いてしまう。これが紛争の始まり。
◎ 其の二「おまえのかあちゃん」
お互い、「バーカ」では物足りなくなる。すると何故か「お前の母ちゃん、ほにゃららら」という、日本の小学生(の、男の子)のお約束の台詞が飛び出す。何故これが「父ちゃん」ではなくて「母ちゃん」なのか。ワシもようわからんが、これを言い出す方は、大概幼い。
◎ 其の三「しまった」
そのうち、(結果的に)喧嘩を売られた方が「あやまれよ!」と言う。喧嘩を売った張本人は、すぐさまそれに気づき、「あ、しまった。あんな事言うんじゃなかった」と思うのだが、その場の勢いは止まらない。
◎ 其の四「あやまってるじゃんかよぉ」
「あやまれよ!」「わるかったよ!」…というやり取りが始まる。ところが、これで終わらないのが子供の喧嘩だ。「だーかーらぁ、あやまったじゃんかよぉ!」「あやまってねぇよお!」「あやまってんのがわかんねーのかよぉ!」という、無限ループの始まり。下手すると、其の二の「おまえのかあちゃん」に戻ったりする。謝ってるんだか謝ってないんだかわからない。
◎ 其の五「三日後」
その日のうちに、停戦に至る事は少ない。放課後までご近所間弾道ミサイルが飛び交い、先生に怒られ、ほんとの母ちゃんに引きずられて家に帰る事になる。紛争が終結するのは、三日ぐらい経った頃。どちらからともなく、赤い顔をして「ごめん」とか言う。これまた下手をすると「ごめん合戦」が始まり、其の一に戻ってしまったりする。
以上が、ワシの考える「子供の喧嘩のお約束」だ。
ネット上の諍いでも、大差ない事は、あちこちで起こっていると思う。その際の教訓で「レスは、一晩寝かせてから返せ」というのがある。相手のメールなどを見て、最後に「これって、変ですよねぇ(爆)」「おかしいとは思いませんかぁ?・・・(ふふ)」とかの付属品(「(爆)」「・・・」「ふふ」)が付いていたら、ほとんど相手は「揚げ足取りモード」なので、すぐに返事を返さないのがベターらしい。
くどいほどの感嘆符も同じく、余計な付属品だ(其の四参照)。そういうのに対して即座に返事を返すと、それは大概脊髄反射になり「おまえのかあちゃん」になる。
揚げ足取りの典型は、「あ、そうそう・・・」という、最初っからそれがメインですよ〜というのが見え見えの話を、あたかも思い出したかのように文章の最後に付ける人。それに対して返事や反応がないと「逃げた」とか「負けを認めた」とか「完膚無きまでに敗北を喫した」とか一方的に言い放つのが特徴。
心の中では鼻から牛乳でも、下手に核心を突いてはいけない。本人はそれで安いプライドを維持しているため、いきなり「弁護士に相談しますよ!」とか言い出す恐れがあるので注意。
もうひとつ、使い慣れない言葉が出てきたら、それもまた冷静ではないらしい。いきなり「弁護士」とか「訴訟もの」とか「謝罪要求」とか「非人道的」とかがいい見本。いくら大人でも素直な言葉ではないということは、頭の中ではゼェゼェハァハァ、一種の興奮状態なのだ。
そこは無駄であっても年を取った人間として、一晩考えて、二晩考えて、最終的に忘れてしまうかも知れんが(ワシはよくやる)、自分がいい加減落ち着いたと思う頃に返事を出す。
国会中継を観ていて、たまに「おまえのかあちゃん」モードに突入してしまう人がいる。同じ派閥の仲間も、敵も、テレビの前の我々もそれに気づいて笑っているのに、本人がモードを抜けられなくなり、そのうち自分でそれに気づいて赤い顔をして引っ込む。国会議員でさえそうなんだから、ワシなんぞ、まだまだ乳飲み子だ。
昔の文集を見ていて、そんな事を考えた。次回のコラムは、「母ちゃんとでべその関連性」…のわけない。うちのかあちゃんに怒られる。
大きなお友達
80年代の中盤あたりからだろうか。アニメの声優さんが表舞台へ出てくるようになった。声優さんのみを扱う定期刊行誌が創刊されたり、声優としてではなく歌手としてデビューする人々も現れた。「顔だけ」とか言われる人もいたが、本当なら縁の下の人達が脚光を浴びるのは面白い事だと思っていた。今日、声優さんはほとんどアイドルのような存在である。
ワシの場合、幼い頃からいろんなアニメを見ていたが、必ず最後のテロップを見ていた。「いつも聞いているあの声は、なんていう人なんだろう?」という好奇心だったのだと思う。アニメに出てくる少年の声は、ほとんどが女性だったりするので、それもまた面白かった。
声優さんの名前を見たら、ついでにテーマ曲の作詞・作曲・編曲、制作(シンエイ動画、よみうりテレビなど)、そういうものまで逐一見て覚えていた。やな子供だが、にわかの声優オタクじゃない。
昨年の秋。高知県にて「島本須美さんに会いたい」という催しがあったそうだ。島本須美さんと言えば、「風の谷のナウシカ」のナウシカ、「ルパン三世・カリオストロの城」のクラリス、「それいけ!アンパンマン」の、しょくぱんまん等々、挙げたらきりがない有名な声の主である。「となりのトトロ」ではお母さん役もやっているので、この中のどれか一つぐらいは思い当たる物があろうかと思う。
そして、島本さんは高知の出身なので、地元の子供達を集めて声優になったきっかけや体験談を語ったり、アテレコの練習まで一緒にやるという、面白いイベントになったようだ。
この催しを知ったのは最近で、インターネットの募集要項に「対象者及び募集人数:県内在住の小学校3年生〜18歳まで 20名」と書いてあった。ワシが想像したものは、
全員やや太めで、やや色白で、ややアバタ面で、やたらとややわきが臭く、やや青い髭剃り跡が顎からもみ上げまでびっしりと広がり、やや銀ぶちのメガネをかけ、やや黒いウェストポーチを出っ腹に巻き、やや派手なバンダナを装着し、やたらとやや2ちゃんねる用語を口にし、やや格子柄などのTシャツを最後にいつ洗ったか思い出せないデニムの中に押し込んだ大きなお友達20名だ。全員リュック或いはポスターが何本も入った紙袋持参。携帯の着メロはアニソン。当然、年齢詐称。
…というのもだ。このイベントのプログラムの最後には「島本さんが絵本を朗読してくださいます」と記されている。“島本さん”ではなくて、クラリスだとかナウシカとか、そっち方面に熱を上げる人々からすれば、生クラリスであり生ナウシカが眼前で喋ってくれるというのは涙モノだろう。
ワシも人の事はあまり言えないもので、毎年恒例のように春先からの宮崎映画オンパレードが始まると、内容なんざ丸暗記しているのに片っ端から見ているし、どの人が誰さんか、だいたいは覚えている。
なので、「となりのトトロ」を見ていて、長女の五月(さつき)が、迷子になった一の瀬さん家の賢太郎…もとい、妹のメイを探すとき「たっちゃぁーーーん!!」と叫んで欲しい。叫んでくれ…。と、心の中で思っている(※さつき=浅倉南=日高のり子さん)。
ちなみに「となりのトトロ」と「魔女の宅急便」はサウンドトラックのCDを持っており、全編ピアノで温習(さら)っているので、テレビの画面を観なくともヘッドフォンでモニターしながらシーンが変わるごとにピアノで一緒に弾ける。
戸田 "鬼太郎" 恵子さんが「力が出ない…」と漏らすと、増岡 "マスオ" 弘さんと佐久間 "ジジ" レイさんがパンを焼き、山寺さん&かないさん夫妻を経由して鶴 "ブルマ" ひろみさん&中尾 "レッシー" 隆聖さんに攻撃されつつある戸田 "おソノ" 恵子さんの元へ渡り、アンパーンチで一件落着となる。わけわからんが、ワシはこのように「アンパンマン」を見るのだ。時々混乱する(注:初代鬼太郎は、野沢 "悟空" 雅子さんだ)。
野比のび太くんが毎度のようにジャイアンにいじめられては泣いて帰り、ドラえもんのひみつ道具で復讐するのはよくあるパターンだが、ジャイアンが母ちゃんに「たけしー! また弱い物いじめして!」と怒られるのは何故か。
答えは簡単。
1) のび太が家に帰り、泣きながらコナンに報告。
2) コナン、学校の裏山でジムシイに耳打ち。
3) ジムシイ、剛田雑貨にチクりの電話。
ワシも、大きなお友達になりかねないのでこの辺でやめておくが、このような視点でアニメを見るのも一興である。
※ここだけの話。トトロに出てくる眼鏡のお父さんは、田舎暮らしと見せかけて、実はバス釣りゲームやRPGをこしらえるクリエイターである。ただ数年に一度、思い出したように群馬の山に籠もり、パワーショベルや現地の人を総動員して穴掘りをするのが悪いクセだと、七国山病院に入院している音無響子さんが語っていたとか、いないとか。では、また次回。
無駄遣い
楽器の世界は、日進月歩である。特に、電子楽器の発展は、目を見張るものがある。
シンセサイザーが生まれ、ドラムマシンが生まれ、サンプラーが生まれ、より高度な表現が可能となってきた。高度イコール、音楽的に優れているというわけではないのだが。
やや難解な話になるが、お付き合い願いたい。
サンプリングの世界は、コツが解ると大変に面白いらしいが、ワシは不得意である。昔であれば、人の声を取り込んでどうこうしたり、ドラムの音を単品で拾い、それを組み合わせる事でブレイクビーツやらヒップホップが生まれ、今ではトランスだとかアンビエントだとか、どこまでいくのやら…という状況になっている。年寄りをいじめんでほしい。
シンセ系中心の楽器屋に行くと、サンプラーのために、数多くの「音素材CD」が売られている。ドラムだけが数小節入っているとか、外人さんの格好いいフェイクが入っているとか、はたまたノイズだらけだったり。知らない人が聞いても意味不明。
それを、DJだとかそれ系の人が機械へ取り込み、編集し、デスコだとかそういう場所でナウなヤングたちをオールナイトでノリノリのフィーバーのブギウギのイケイケにしてしまったりする。
素材CDでも、ますますわけのわからない物が出てきており、「名古屋章の喋りが入っている」とか、そういうものがある。使う人が使ったら、きっと面白い物、音楽という世界を超えた表現が生まれるのだと思う。
だが、ワシの考えは違う。
「由紀さおりCD」というのを作る。簡単なやつ。本人の声で「る」「ら」とかしか入ってない。ピンと来た方、もう正解。「夜明けのスキャットRe-mix」のためだけのCD。テクノロジーとは、無駄遣いのためにあるのだ。ちなみに2番は歌詞がついているので不可。…だめだ、世代がバレる。
以下同様に、「さだまさしCD」で「あ」「ら」「う」等が入っていて「北の国からRe-mix」のためだけとか。
さらにピンと来た方。最初から本家のCD買えよ!というツッコミはご勘弁。
一台10万、20万みたいな機械で、ここまでやる人がいたら、ワシは応援したい。豪華絢爛な機材でどこまでくだらない事がやれるか。
「シャバダバ」「ティ」「ウ」これだけあれば、かつての某深夜番組のオープニングが作れたりする。嗚呼、素晴らしきテクノロジー。どこまで行ってもワシの頭は昭和のまんま。一緒にバカやって下さる方、大募集。でも、ほんとに応募しないでね。所長、困っちゃ〜う。
※よい子のみんな、Googleで元ネタ探さないように。ろくな大人にならないぞ!
謎の記憶
専門学校時代の同期で、今でも秋葉原の電気街を一緒にうろついたり、大量にCDを貸してくれる有り難い友人がおる。もう結婚して子供もいるので、時々家にお邪魔しては、彼と、彼の奥様と3人で音楽の話をしたり、夕飯をご馳走になったりする。
ご夫妻にはお子様がいる。二人兄弟で、たしか3歳と1歳ぐらいだったと思う。固有名詞もなんなので、仮に「ブラザーズ」と呼ばせていただく。兄はマリオ、弟はルイージだ。「それもまた固有名詞じゃ…」と思う前に続きを読んで頂きたい。
先だってもまた、秋葉原で待ち合わせ、適当に買い物をして、ご自宅へうかがった。夕飯をご馳走になり、3人で雑談などをしておった。いつも元気でやんちゃなマリオ君、その日はやけにご機嫌で、ワシになついてくれていた。マリオ君が、座っているワシの膝に乗ったので、自然と抱っこして、引き続き3人で会話をした。
で、奥様が「子供の記憶力ってすごいんですよね〜。一度テレビで流れただけの音楽とか、一回で覚えちゃうんですよ」と、おっしゃった。よく聞く話だが、その日も実際にマリオ君は、かなり多くの歌を歌ったり、テレビアニメの台詞らしきものをすらすらと口にしていた。
日頃、子供に接する機会のないワシは、マリオ君が楽しそうに歌ったりするのを興味深く見ていた。子供の学習・吸収能力の高さもあるだろうし、まだ知識の絶対数としては少ないから、空間がとても広く、多くの物がすんなり、ほいほいと入ってゆくのだろう。余計なガラクタがぎっしり詰まったワシとは大違いだ。
ワシは、マリオ君とお話のようなものをしたり(まだ会話には至らない)、手をつないで擬態語などを言い合って遊んでいた。で、ワシはなんとなく冗談で、こう言ってみた。
「二十代はいいのよぉ〜。 ヤな事あっても、 寝て起きたら顔ツルツルしてるんだから…。 問題は… 三十過ぎてからよね。 アタシが見つけたのは…… エス○ーツー。 い ま この肌だったら… 悪くないと思わない?」
(※誰とは言いませんが、とてもとてもかったるそうな姉御っぽい口調を想像してお読み下さい)
これをやった途端、奥様が笑い出して「やめて下さい(笑)!!!」と叫んだ。ワシも笑った。
「ほんとに覚えちゃうんですから〜(笑)」と、笑っていた。まもなく幼稚園か保育園なんだそうで、下手な事を覚えたら困るのだそうだ。当たり前だってば、ワシ。しかし、ワシは少々図に乗って、ほどほどにあれこれやってみた。
マリオ君と両手をつないで
「♪東村山〜 庭先ゃ 多摩湖〜 狭山茶どころ情けが厚い〜 東村山四丁目〜」
奥様、昔の竹中直人状態だった。友人は換気扇の下、タバコ吹かして笑っていた。マリオ君は、わけがわからなそうに笑っていたので、多分大丈夫だと思う。た、多分ね…。
他にも、手の仕草で「飛びます、飛びます」だの「ぐわっし」だの、「死刑!」。果ては「ええ、コレが(右手の小指を立てる)コレで(妊婦さんがお腹をさする仕草)」とか(注:その時はもう、マリオ君は一人でクッパか何かと闘っていたので大丈夫だろうが、本当に覚えられたらシャレにならん)。
近い将来、マリオ君が学校で東村山音頭をやらかしたら、ワシは菓子折の一つも持って、友人宅をお邪魔する事になるだろう。そしてさらに時が過ぎ、マリオ君がホームページを立ち上げて、「僕はどうしてこんな事を知っているんでしょうか」などと書いていたら……、ワシはどうしていいのかわからない。
友人&奥様、もうしません。どうかこの老いぼれジジイに、お慈悲をよろしくお願いします。なお、ま・さ・かとは思いますが、ルイージ君までも覚えてはいないだろうと思いますので。どうかひとつ。
かえろ。
フィル・コリンズ(Phil Collins)という、英国生まれのスーパースターがおる。名前ぐらいは、このところの80年代洋楽ブームなどでご存じの方も多かろう。このお方は、70年代から活躍し続けるプログレッシブ・バンド(←当時は)「ジェネシス(GENESIS)」に在籍しておった。
初代ボーカリストはピーター・ゲィブリエル(Peter Gaberiel)であり、ピーター脱退後のジェネシスの牽引者となったのが、トムじゃなくてフィル・コリンズ氏である。ちなみにGaberiel氏はソロとなり、早くからMacintoshでCD-ROMを作るなど、アーティストでありクリエイター的な人。大ヒット曲「スレッジ・ハンマー(Sledgehammer)」は、とんねるずのみなさんのおかげでしたの、食わず嫌い王決定戦で聞こえている、あの尺八の一節の元ネタ。世界中のテレビその他で使われまくっているフレーズと、その曲を作ったお方だ。
フィル氏の話に戻る。氏は、キーボーディストであり、作詞家、作曲家、編曲家である。落語家ではなかったような気がする。あまり知られていないが、鬼のように上手いがニコニコ笑ってやっぱり鬼みたいなフレーズをバカスカ叩く、バカテクドラマーだ。おまけにプロデューサーであり、超がつくほどの一流のエンターテイナー(MTVで数多くの傑作プロモーションビデオを残している)だ。
80年代当時、人呼んで「世界一忙しい男」だった。英国で長者番付入りする、とんでもないお方だ。今でもそこら中の超大物プレイヤーのレコーディングやライブイベントのゲストに呼ばれ、ライブではニコニコ笑って歌うわ叩くわ、喋って客まで笑わせるわ、なんでもござれのおっそろしい、優しいおじさんだ。
氏は、そこまでの多芸多才なのにこれっぽっちも気取らない。ジェネシスのフロントマンとなった氏は、プログレ指向だったジェネシスを、あっという間に素晴らしいポップバンドに塗り替え、違うジャンルで大ヒットを連発しまくった。「インビジブル・タッチ(INVISIBLE TOUCH)」が代表。
プロモーションビデオが面白い。「Take Me Home」という曲では、ただのオッサン(氏)が「ちょっと出かけてくるよ」と奥さんに言って散歩に出かけたら、何故だか行く先が、ゴールデンゲートブリッジだったか万里の長城だったか、はたまた凱旋門だか大阪城だか忘れたが、世界の名所ばかり。ようわからんが、オッサンはニコニコ笑っている。で、美しいバラードが終わり、家にかえったオッサンが、奥さんに「どこ行ってたのよ」と聞かれ、ニコりと笑って「うん、ちょっとね」。
タイトルをわざと直訳すれば「私を家まで連れて行ってください」。
歌詞をワシなりに表現する。
「俺は、ただの男だよ。
君の事をなーんとなく考えたりするけど、外に出たくなくてさ。
まあ世の中色々あるけど、どうでもいいんだ。
朝が来りゃ起きて、夜になりゃ寝る。星なんか見てたってしょうがない。
帰りたいよ。帰りたいんだよ。
でもさ、自分の家がどこにあったか忘れてんだよ。
連れてってくれよ。
思い出せないんだ。
『自分が帰るべき場所』が、思い出せないんだ」。
ワシは、歌詞の意味を知り、「Take Me Home」がオッサンの「あ、帰ろ。」だと理解し、プロモを再度見て熱い涙を流した。
この曲が収録されているのは、氏のベスト盤「HITS」。これだと、日本語訳が付いている。だが、ワシが最初に買った氏のCDは、オリジナル盤である「NO JACKET REQUIRED」(今これを探して買っても、日本語訳が付いているかは解らない)。一見、不気味なレコードジャケットだ。氏の顔が、真っ暗な背景のど真ん中に、どでかく浮かんでいるだけ。当時は、「なんだ、これ?」と思っていた。
その意味は「レコードジャケットなんか不必要です」=「コジャレた絵なんかいらね、俺の顔でも見とけ」だった。氏を尊敬するワシは、「せっかく自分が書いて、みんなに聞いて欲しいと思っているだけの曲に余計な能書きなんか一切つけない、つけてやるもんか、つけるかド阿呆!」と心で叫び、ニッコリ笑って今日もアホみたいな創作活動を行っている。落語のオチを自分で説明する奴はいない。
他のビデオクリップでは、氏がサムライ姿でちょんまげのヅラを被っていて、よくわからんNGシーンのおまけまでついていた(「DON'T LOSE MY NUMBER」=「俺ん家の電話番号忘れんな」だと思った。たしか)。そういうボケかますただのオッサン(Ordinary Man)であり、スーパースターだ。この人カッコ良すぎだ、と思った。
所長熱弁いますぐ買いに走れCD
Phil Collins「No Jacket Required」
ベスト盤の「HITS」には「DON'T LOSE〜」が入っていない。なのでベストよりもこの人のベスト。
今日の用件終わり。かえろかなぁ〜 かえるのよそうかなぁ〜。
布袋キック
「キックと言えばナガブチ」と思った、そこのあなた。そりゃ確かにワシもそう思うのだが、そう思ったら、是非ともご本人の目の前で同じ言葉を語って頂きたい。余談だが、ワシはアントニオ猪木にだったら金払ってでも闘魂注入して欲しいと朝から晩まで考えながら生きている。
でだ。ワシは中学生の頃、仲間とバンドをやる機会に恵まれた。ブラスバンドに在籍しており、顧問の先生がブラスバンドのためと言って、ドラムセットを購入してくれた。しかし、その先生。実はビートルズファンのバンド小僧だった(と思う)。
後に気が付くのだが、ジョン・レノンと同じような髪型・同じような眼鏡をかけておられた。レノンも髪型が様々変わった人だったが、先生のそれは、男性にしては少し長い髪と、眼鏡がトレードマークだった。
その先生、広い音楽教室の隣にある、小さな音楽準備室にドラムセットを置いた。
ワシはクラシックギターだけは少しかじったが、エレキは持っていない。すると先生、自分のエレキと自分のベース。ついでにBOSSのディストーションとコンプレッサー、どこかの安物コーラスまで持ってきた。壊れかけのステレオがあり、アンプとして使わせてくれた。
先生は、かつて物のない時代にバンドをやっておったので、ワシらに何かを伝えたかったのだろう。
その日から、98%ぐらい素人のガキどもが、BOOWYのコピーを始めるのだった(クラシックとエレキは別物なのだ)。
毎日 毎日 僕らはてっちゃんのキーボードをコピー、したのはワシだけだったが、とりあえず毎日どこかの家に集まっては借りてきたビデオを見て研究し、奴は週刊漫画を並べてスティックで叩き、いつも母親から「二階で何ドコドコやってんだ!」と怒られていた。何もかも、全員BOOWYにまみれて生きていた。
ワシはギターだった。とりあえず布袋さん担当だった。ワシにとっての神様仏様布袋様。その布袋さん。あの人はライブになると、デタラメとも思えるギターを弾きまくり、キメるとこだけばっちりキメて、後はただ遊んでいるかっこいい男だった。ワシはコピーに明け暮れていたし、当然憧れていた。その布袋さんについて、ある音楽ライターの人が雑誌で書いていた。
「ライブでギターの音が途中で出なくなり、代わりのギターを持って飛んできたローディーの頭をコツンと蹴飛ばす布袋の姿がかっこいい」と書いてあった。ワシは、あんな人が、そんな事をするんだろうか。人前で、いくらなんでも人の頭を小突くような真似はしないだろうと、幼いワシは不愉快に思った。
そこから十数年が経ち、バンドが解散してもBOOWYファンは全国各地で今も生き続けている。「BOOWYのLIVE」はもう無いかも知れんが、「BOOWY ALIVE」だ。ワシもその一人である。未だにBOOWY小僧、布袋ファンだ。で、ありとあらゆるビデオ映像を見て音源を聞きまくり、やっと理解した。
「豪雨の中、機材全てにビニールを何重に被せても、エフェクターあるいはギター内部の回路がやられてしまった時など、どうしようもないアクシデントの時は、速攻でローディーとギターを交換する。そうでないと、ライブが台無しになる。
が、どこそこホール等の一般的な、環境条件がきちんと整った場所でのライブで音が途絶えたならば、それは、いつも布袋さんの機材管理・メンテナンスを全て任されているローディーつまりはライブスタッフの職務怠慢である」
そうだったのか、と思った。
布袋さんは「お前、毎日何のために働いて金もらってるんだ? 今、お客さんたちは最高に盛り上がって楽しんでいるんだぞ? お金払ってライブを見に来てくれているんだぞ?
お客さんたちに失礼だろ? いいから、すぐ代わりのギター頼む!」
そういう事なんだろうと、ワシは勝手に思った。だから「次はちゃんとやれよっ!」と諭して小突くんだ。お客さんがシラけてがっかりしてライブを台無しにする代わりに、とりあえず「ポコ」と、足で軽くつつく。何故ならローディーさんは極力目立たぬように、できる限りしゃがんだ状態で代わりのギターを持ってくるから、手を使ったら殴ったように見える。足なら、布袋さんはいつも、ひょいひょいと踊りながら楽しそうにギターを弾くので、音の途絶えた状態のギターをわざと持っていればカモフラージュ出来る。
そして、「わかったね? なら、次はしっかり頼んだよ!」と心で呟きギターを受け取り、即座に最高のデタラメギターを弾き始める。お客さんは、何にも気にしちゃいない。神様仏様だ、あの人は。だから布袋様なんだ。
ワシは学んだ。とにかく、何やるにしてもちゃんとやれ。大事なのは何かを考えろ。人の気持ち、心を考えて動け。慢心するな。そうでないと、いつか必ず失敗する。人に迷惑をかけたり、心を傷つけてしまう。果ては自分が恥をかき、人間としての信用を失う。だからだ。愛のムチであり、ワシの無知だった。
それが、布袋キックの全てだと思った。それを悟った時、布袋様の足が「ポコ」とワシの後頭部をつついた。「やっとわかっただろう? 自分の音楽・表現を人に伝えようと思ったら、まず人柄を好かれる事だよ。そうでないと、誰も聞きになんかこないんだよ。もし誰かが聞きに来てくれたならば、それは君の大事なお客さんなんだ。君のお客さんなんだから、その人たちに失礼な事はやっちゃいけないんだよ。『ただの人間関係』なんだ。わかったよね?」。と、天から声が聞こえた。
本当にごめんなさい布袋さん。今からすぐ「BAD FEELING」、明後日の夜までぶっ続けで練習します。そして、自分の気持ちをきちんと表現して、相手の気持ちも考えて、失礼のないように心から楽しんでもらおうと思います。
ワシは、心から自分の無知と、思いやりのなさを恥じた。何もかも一から出直そうと決心した。まわりの友だちだって、みんな仲間だ。ただの友だちなんだ。
布袋さんだって、ギターの世界では神様だが、ただの人間なのだから。